第一部 みんなを笑顔にするマラソン

2024.03.08

監修

敦賀医療センター リハビリテーション科医長 竹谷 英之 先生

ゲスト
:横浜DeNAランニングクラブ
 総監督 瀬古利彦氏
監修
:東京大学医科学研究所附属病院 関節外科
 診療科長 竹谷英之先生
開催日時
:2018年6月21日木曜 19時~20時
開催場所
:東京・八芳園

※対談時のご所属です

プロ野球選手を目指して一人で始めたランニング。
よき指導者とライバルに恵まれてトップランナーに。

竹谷先生:近年、マラソンやジョギングがブームになっています。たくさんの市民ランナーが公園などで練習する姿をよく見かけるようになりました。本日は、現役時代、国内外のマラソン大会で15戦10勝という輝かしい成績を収められ、現在は横浜DeNAランニングクラブ総監督を務めていらっしゃいます瀬古利彦さんをお招きし、マラソン競技や走ることの魅力について伺いたいと思います。
では、まず瀬古さんがマラソンを始められたきっかけからお聞かせください。

写真:竹谷先生

瀬古氏:私が小学生の頃、男の子の憧れの職業と言えばプロ野球選手でした。私もピッチャーとしてプロ野球で活躍することを夢見て一生懸命、野球に打ち込んでいたものです。ある日、テレビで“巨人の星”を見ていたら、主人公の星飛雄馬が父親の星一徹に「野球が上手くなりたければ走れ」と言われているのを見て、「プロ野球選手になるには走らないといけないんだ」と思い、走り込みを始めたのです。

竹谷先生:“巨人の星”は熱血野球マンガで、とても人気がありましたね。私もテレビでよく見ていました。

瀬古氏:私は、もともと運動神経はよかったのですが、走り込みの甲斐もあり、中学校に入学した頃は「野球部に足の速いやつがいる」と評判になるほどでした。その評判を聞きつけた陸上部の顧問から「県大会に助太刀で出てくれ」と頼まれ、出場したところ、大会新記録を出して優勝してしまったのです。

竹谷先生:県大会に初出場でいきなり優勝ですか! それはすごいですね。

瀬古氏 :この経験がきっかけとなり、自分には野球よりも陸上の方が向いていると思い、陸上の名門である四日市工業高校に進学しました。高校2年の時に800m、1500mでインターハイ優勝、翌年も同じ2種目を制し、2連覇を達成しました。その後、早稲田大学に進学して恩師の中村清監督と出会い、マラソンランナーへの道を歩むことになったのです。

竹谷先生:では、もともとは中距離ランナーだった瀬古さんがマラソンランナーに転向されたのは、恩師の中村監督との出会いがきっかけだった、ということですね。

写真:竹谷先生と瀬古氏

瀬古氏:そうです。中村監督は、私を見るなり「今日からマラソンをやりなさい。私が必ず君を世界一にしてやるから」とおっしゃったのです。そこで「世界一になれるなら」と、マラソンに転向することを決意しました。しかし、それまで中距離しか走ったことがなかったので、最初は20kmをゆっくり走るだけでもとてもつらかったものです。「こんなに長い距離を走って何が面白いのだろう?」などと思いながら走っていたほどです。毎日の練習も非常に厳しく、また中村監督からは「マラソンだけに集中しなさい」と言われ、日常生活も管理されて20歳を過ぎても外食したり、着飾ったり、女性と出歩いたりすることも禁止されていました。

竹谷先生:それほど厳しい環境のなかで、マラソンの練習を続けられたのはなぜでしょう?

瀬古氏:まず、中村監督が非常に熱血漢で、私を本気で世界一にしようと指導してくれた、というのがあります。私はその熱意に心を打たれ、中村監督が言うことなら何でも素直に従おうと思いました。そして、常に中村監督の教えを請い、中村監督の言葉を信じて言われるがままに走っていました。

写真:瀬古氏

竹谷先生:瀬古さんは、中村監督との二人三脚で数々の記録を塗り替えていかれたと記憶しています。才能のある選手と名監督がタッグを組むことで、素晴らしい結果が出たのですね。

瀬古氏:ありがとうございます。心から信頼し、尊敬できる師に出会えたことは私の人生に大きな影響を与えました。また、宗兄弟、すなわち宗茂さん、猛さんというよきライバルの存在も大きかったように思います。彼らに負けたくない一心で練習に打ち込み、彼らが練習拠点にしていた宮崎県の方角を見上げながら、「今ごろ、彼らは私よりもハードな練習をしているかもしれない」と想像し、「彼らに勝つために、もっと練習するぞ」と自らのやる気を奮い立たせていました。

竹谷先生:よき指導者、よきライバルに恵まれたことで、苦しい練習にも耐えられたのですね。

瀬古氏:自分一人の努力だけで自らを高めるには限界があります。指導者から客観的な評価やアドバイスを受けて、ライバルからも刺激を受けることで成長できるのではないでしょうか。現役時代、私はメディアから“修行僧”と呼ばれるほど、人生のすべてをマラソンに捧げ、同年代の仲間が遊んでいる間もひたすら走り続けていました。積み重ねた練習は嘘をつきません。マラソンは、練習をすればするほど結果がついてきます。私の初マラソンは20歳の時でしたが、走る前は「本当に42.195kmもの長い距離を走れるだろうか」と不安で仕方ありませんでした。そうした不安や恐怖心を拭い去るには、練習に練習を重ねることで自分に自信をつけるしかないのです。そしてレースの前に「ライバルよりも多くの練習をしてきたのだからきっと大丈夫」と思えることで自信につながりました。そして、勝つためには強い信念を持ち続けることが大事です。人と同じことをしていては勝てません。勝つというのはそういうことなのです。

マラソンは走っている時は苦しいこともあるけれど、自分に自信をもたらしてくれます。
ゴールする時には全員が笑顔になっているんです。マラソンはみんなを笑顔にするスポーツですね。

竹谷先生:42.195kmをおよそ2時間という速いスピードで、たった一人で走り切るのですから、孤独感や苦しみに耐え、それを乗り越えてゴールするには、よほどの自信がないとできないですね。

瀬古氏:不思議なことに、これほどまでに苦しいはずのマラソンですが、ゴール地点ではプロのマラソンランナーも市民ランナーもみな笑顔なのです。これは、42.195kmもの長い距離を走り抜いてようやくゴールできたという喜びと、途中でくじけそうになる気持ちや押しつぶされそうになる不安に「勝てた」「克服できた」という達成感がもたらす笑顔だと思います。そうした意味では、マラソンはみんなを笑顔にするスポーツと言えるでしょう。

竹谷先生:よくマラソンは人生にたとえられますが、山あり谷あり、途中で色々なことがあっても、最後には努力すれば努力しただけの結果が伴い、喜びがもたらされるということですね。

写真:瀬古氏

瀬古氏:私は、多くの方にマラソンの魅力を伝えたいと思っています。マラソンは途中、苦しいこともありますが、ゴールした瞬間は笑顔が待っています。マラソンランナーの有森裕子さんは1996年のアトランタオリンピックでゴールした際、「初めて自分で自分を褒めたいと思います」と語りました。マラソンは自分の力を再評価し、自分を褒めたくなる、自分に自信をもたらしてくれるスポーツなのです。

Profile

写真:瀬古利彦氏

横浜DeNAランニングクラブ
総監督 瀬古利彦 氏 プロフィール

1956年7月15日、三重県桑名市生まれ。早稲田大学時代は中村清監督のもと、箱根駅伝では2年連続区間新記録。マラソンでは福岡国際3連覇やボストン、ロンドン、シカゴを制するなど、戦績15戦10勝と輝かしい実績を残した。トラック競技においても5000mからマラソンに至るまでの日本記録を総ナメにし、25000mと30000mでは世界記録を樹立(当時)。引退後は早稲田大学、エスビー食品での指導を経て、2013年4月より横浜DeNAランニングクラブの総監督を務めている。

※対談時のご所属です

TOPへ戻る